新しいやり方で成果を出しているのに、今の評価の物差しでは測ってもらえない。そんな経験はありませんか? 150年前のパリで同じ壁にぶつかった画家たちが、どんな順番で認められていったのかをたどります。
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サロンの物差しでは、印象派は「落第」だった
当時、公的な評価のいちばんの門はサロンだった
19世紀のフランスで、画家が公的な評価や名声を得るうえで最も重要な場は、国が後ろ盾となって開かれる展覧会、サロン(官展)でした。審査に通れば、賞や注文、名声が手に入ります。通らなければ、大勢の人に作品を見てもらう機会は、ぐっと少なくなりました。
その物差しは、はっきりしていました。歴史や神話、宗教を描いた絵が一番上で、風景画や静物画は下。近くで見ても滑らかで、筆の跡を残さない仕上げがよいとされていました。
1863年、皇帝が買った絵と、笑われた絵があった
その物差しがよく分かるのが、1863年の2枚です。カバネルは美術学校の教授で、サロンの審査員も務めた、当時の一流の画家でした。その「ヴィーナスの誕生」はサロンで大成功し、皇帝ナポレオン3世がすぐに買い上げました。同じ年、マネの「草上の昼食」は審査で落とされ、のちに見せる機会を得たものの、人々の笑いものになりました。


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神話の女神を、肌の質感まで滑らかに描いたカバネル。現代の服を着た男性たちのそばに裸の女性を置き、筆の跡も残したマネ。どちらがうまいかではなく、物差しに合っていたかどうかが、2枚の運命を分けました。
今、パリのオルセー美術館では、カバネルの絵と印象派の絵が同じ館に並んでいます。滑らかな肌や正確なデッサンに見入る人もいれば、光の揺らぎに惹かれる人もいる。どちらの物差しにも、今はそれぞれの居場所があります。150年前の問題は、物差しが一つしかなかったことでした。
では、マネやモネは、なぜわざわざ物差しから外れる絵を描いたのでしょう?
2人は、壊したかったのではなく、今を描きたかった
街も暮らしも、目の前で大きく変わっていた
19世紀半ばのパリは、大改造のさなかでした。古い路地が取り壊されて大通りが通り、鉄道が郊外へ延び、人々はカフェや劇場、川辺の行楽を楽しむようになります。写真も生まれ、見たものを写し取る新しい手段が加わりました。チューブ入りの絵の具も広まり、画家は外に出て、その場で描けるようになっていました。
詩人のボードレールは1863年に発表した『現代生活の画家』で、同時代の服装や風俗、移り変わる都市の暮らしにも、美術が描くべき美しさがあると論じました。目の前の世界がこれほど変わっているのに、描くのは昔の神話のままでいいのか。そんな問いを持つ画家も、少なくありませんでした。
マネの個展には「自分自身であろうとした」と記された
1867年、マネが自ら開いた個展のカタログには、こんな趣旨の文章が載っています。作品が抗議のように見えるのは、画家が自分の印象を誠実に表そうとしたためだ。マネは古い絵画を覆したり、新しい絵画を作ったりするつもりはなかった。ただ、ほかの誰でもなく、自分自身であろうとしたのだ、と。
マネは、わざと物差しから外れようとしたのではありませんでした。自分の時代と自分の目に正直に描いたら、結果として、物差しからはみ出していたのです。
モネは「目に映った色と形」を描こうとした
モネも同じです。モネと交流したアメリカの画家リラ・キャボット・ペリーは、1927年の回想で、モネからこんな助言を受けたと記しています。「描きに出たら、目の前にあるのが木か家か野原かを忘れなさい。ここに小さな青い四角がある、ここにピンクの細長い形がある、とだけ考えて、見えたとおりに描きなさい」。
頭で知っている「木」ではなく、その瞬間に目に映った光と色を描く。モネが求めたのは、物差しへの反抗ではなく、見えたものへの忠実さでした。
モネには、こんな言葉も伝えられています。
「私は印象派になったのではない。
物心ついたときからずっとそうだったのだ」
I didn't become an impressionist. As long as I can remember I always have been one.
そして晩年の1926年に書いた手紙で、モネは、理論というものがひどく嫌いであること、自分の取り柄は自然を前にしてじかに描いてきたことだと書いています。自分がきっかけとなった「印象派」という名前が、考え方の違う画家たちにまで使われるようになったことを、残念に思っているとも記しています。
「印象派」というラベルは、あとから周りが貼ったものでした。モネの描き方は、生涯を通じて変化し、深まっていきました。それでも、目の前の自然を自分の目で捉えようとする姿勢は、一貫していました。やがて、その表現を受け止める人や場所のほうが、増えていったのです。
では、物差しに合わない絵は、どこで見てもらえばよかったのでしょう?
審査のない「別の場」を、自分たちで作った
落選展は、皇帝が「人々に判断させる」ために開いた
1863年のサロンでは、5,000点を超える応募の多くが落とされました(資料によって、2,000点以上とも3,000点近くともいわれます)。落選した画家たちの不満を受けて、皇帝は落選作を別の会場で見せることを認めました。「人々に判断させる」というのが理由でした。マネの「草上の昼食」が笑われたのは、この落選展です。
笑われはしたものの、審査員ではない人々の目に、作品が初めて届いた場でもありました。
1874年、30人の画家が自分たちの展覧会を開いた
10年後、画家たちはもう一歩進みます。前の年の暮れに自分たちの協会を作り、1874年4月、パリの写真家ナダールがかつて使っていたアトリエで、審査のない展覧会を開きました。参加したのは、モネ、ルノワール、ドガ、ピサロ、セザンヌら30人です。
この展覧会は、1886年までに8回開かれました。サロンの審査を待つのではなく、見てもらう場そのものを自分たちで作ったのです。
「印象派」という名前は、からかいから生まれた
第1回の展覧会に、モネは港の朝を描いた1枚を出しました。題は「印象、日の出」です。批評家のルイ・ルロワは風刺新聞にこの展覧会の記事を書き、「作りかけの壁紙のほうが、この海の絵よりまだ仕上がっている」とからかいました。記事の題は「印象派の展覧会」でした。

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今では誰もが知る「印象派」という名前は、最初は悪口だったのです。新しいものには、中身をじっくり見てもらう前に、まずレッテルが貼られてしまうことがあります。そして一度レッテルが貼られると、人はその名前で判断して、絵そのものを見てもらいにくくなります。
では、展覧会を開くだけで、画家たちは食べていけたのでしょうか?
画商と、海の向こうの買い手が評価を支えた
画商デュラン=リュエルは、売れない絵を買い続けた
展覧会だけでは、生活は成り立ちませんでした。画家たちを支えたのは、画商のポール・デュラン=リュエルです。普仏戦争を逃れたロンドンで、1870年から翌年にかけてモネやピサロと出会い、1870年代の初めから彼らの絵を本格的に買い、紹介していきました。
ただ、これは美談だけではありません。1882年にはフランスで金融危機が起き、取引のあった銀行が破綻します。ロンドンなどで開いた印象派の展覧会も売れ行きが伸びず、デュラン=リュエルは1880年代半ばに破産寸前まで追い込まれました。買い支える側も、賭けていたのです。

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1886年、ニューヨークで「笑わずに買う」人々に出会った
流れを変えたのは、海の向こうでした。1886年4月、デュラン=リュエルはニューヨークで「パリの印象派による油彩・パステル作品展」を開きます。展覧会は好評で、翌月からは別の会場に移して続けられました。のちに彼は、アメリカの人々は笑わずに買ってくれた、この年のアメリカでの展覧会が自分を救った、と振り返っています。
フランスにも買い手はいましたが、アメリカという大きな市場が開けたことで、印象派の絵を支える買い手の層が、海の向こうへ一気に広がったのです。
では、本国フランスの国は、いつ印象派を認めたのでしょう?
国の承認は最後に、少しずつやってきた
1881年、国はサロンの運営から手を引いた
先に変わったのは、サロンの側でした。1881年、国はサロンの公式な後援をやめ、運営を美術家たちの団体に任せます。1890年にはその団体も分裂し、別のサロンが生まれました。サロンは少しずつ、「唯一の門」ではなくなっていきました。
カイユボットの遺贈は、一部だけが受け入れられた
画家のカイユボットは、仲間の絵を買い集める収集家でもありました。彼自身も、床を削る職人を描いた「床削り」を1875年のサロンに出し、落選しています。当時の批評家の中には、その主題を「下品」と評した人もいました。

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1894年にカイユボットが亡くなると、モネやピサロ、ルノワールらの作品が国に遺贈されました。ところが、展示場所などをめぐって交渉は難航します。遺言の執行人だったルノワールとの話し合いの末、国が受け入れたのはコレクションの一部でした(38点。数え方によっては40点とする資料もあります)。1897年、それらがリュクサンブール美術館の専用の展示室で公開されます。印象派の絵が公立の美術館にまとまって並んだ、画期的な出来事でした。残りの作品は、1904年と1908年にも申し出がありましたが、国は受け入れませんでした。
モネが亡くなる頃、印象派は「古典」になっていた
モネは、第一次世界大戦の休戦の翌日、1918年11月12日に、完成間近だった装飾画2点を国に贈りたいと申し出ます。計画はのちに「睡蓮」の大連作へと広がりました。1926年にモネが亡くなり、翌1927年、「睡蓮」はパリのオランジュリー美術館で公開されました。最初の展覧会から、50年あまりがたっていました。

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こうして並べると、印象派が認められた順番が見えてきます。では、この順番は、いま新しいやり方で働く私たちに、何を教えてくれるのでしょう?
筆者の考え:説得より、認めてくれる場と人を増やす
印象派が認められたのは、絵のよさが審査員に伝わったからではありませんでした。審査のない展覧会、買い支える画商、海の向こうの買い手という認めてくれる場と人が先に生まれ、国の承認は最後に、少しずつやってきました。新しい評価軸は、相手を説得することよりも、認めてくれる場と人を増やしていくことで受け入れられていくのだと思います。
そして、古い物差しが負けたわけではありません。新しい物差しが、一つ増えただけです。その分、活躍できる道が増えました。
職場の「サロン」は、年に1〜2回の評価面談かもしれない
多くの職場で、働きぶりが正式に評価されるのは、年に1〜2回の評価面談ではないでしょうか。部署をまたいで進めた仕事、AIを使って生み出した時間、社外での学びや発信。評価面談そのものが悪いわけではありません。ただ、新しいやり方の成果ほど、今の評価シートの物差しには乗りにくいものです。上司を説得しようとしても、物差しそのものが合っていなければ、なかなか届きません。
自分の「別の場」と「買い手」と「名前」を持つ
そんなときは、印象派の順番を借りてみるのはいかがでしょうか。
- 別の場:社内の勉強会で発表する、社内公募のプロジェクトに手を挙げる、社外で発信する
- 買い手:「その仕事をまた頼みたい」と言ってくれる他部署やお客さまの声を、記録に残しておく
- 名前:自分のやっている新しい仕事に名前をつけて、人に説明できるようにしておく
このブログも、私にとっての「別の場」の一つです。以前の記事(自分の権限では決められない仕組みを、どう変えるか)で取り上げたパリシーも、試し続けたからこそ、後ろ盾に見いだされました。印象派も同じです。自分たちで展覧会を開き、仲間と場を作るところから動き出し、その動きに画商や海の向こうの買い手が加わって、最後に国が追いついてきました。どちらも、内側から始めた動きが、外側を少しずつ動かしていったのです。
マネは、サロンを目指しながら、自分の場も作った
最後に、マネの話を。マネは、1874年の夏にはモネと並んで外で絵を描くほど、親しい間柄でした。

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それでもマネは、印象派の展覧会には一度も出さず、最後までサロンで認められることを目指しました。一方で、公式の展覧会に選ばれなかった1867年には、自腹で自分だけの展覧会を開いています。
モネは、マネの絵を国の美術館に届けた
マネが亡くなったあと、その代表作「オランピア」を国の美術館に届けたのは、モネでした。1865年のサロンで、現実の女性をこちらをまっすぐ見つめる姿で描き、大騒ぎになった絵です。モネが仲間に寄付を呼びかけ、1890年、マネが求め続けた国の美術館に、その絵が収められました。見せる場所の選び方は違っても、2人は互いの絵の価値を分かっていたのだと思います。
好きな絵はモネ、生き方はマネ
先ほどのモネの言葉は、以前、角川武蔵野ミュージアムのモネ展で出会った言葉です。今の物差しでは測りきれずに、見過ごされている人や才能も、きっとどこかにいるのだと思います。
私自身、好きな絵はモネです。パステルカラーのような淡い色合いが、とても好きです。でも生き方は、マネに近いと感じています。新しいことに取り組みながら、今いる場所でも力を出していきたい。自分の場を作ることと、今の場で役割を果たすこと。どちらか一方を選ばなくてもいいのだと思います。
新しいやり方で働いているのに、うまく評価されないと感じている方に、参考にしてもらえる場面があれば幸いです。
【セルフチェック】新しいやり方を認めてもらうための5項目
この記事の考え方を、自分の仕事に当てはめてみるためのチェックリストです。気になった項目だけ拾ってもかまいません。
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自分の仕事が評価される「門」はいくつあるか評価面談のほかに、見てもらえる場はあるか
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今の評価の物差しに、自分の新しい成果は乗っているか乗っていないなら、どの項目が合っていないか
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審査のない「別の場」を持っているか社内の勉強会、社内公募、社外での発信など
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「また頼みたい」という声を残しているか他部署やお客さまからの言葉、依頼の記録
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自分の新しい仕事に、名前がついているかひとことで人に説明できるか
用語メモ
本記事に登場する専門用語をまとめました。▶ をクリックすると説明が表示されます。
▶ サロン(官展)
17世紀に始まった、フランスの公式の美術展。19世紀には国と美術アカデミーの後ろ盾のもとで審査が行われ、画家が世に出るための主な道でした。1881年に国は公式な後援をやめています。
▶ 落選展
1863年、サロンに落選した作品を集めて開かれた展覧会。皇帝ナポレオン3世が開催を認めました。
▶ 印象派展
1874年から1886年まで、パリで8回開かれた、画家たち自身による審査のない展覧会。のちに「印象派展」と呼ばれるようになりました。
▶ 画商
絵を買い取ったり、展覧会を開いたりして、画家と買い手をつなぐ人。デュラン=リュエルは、売れない時期の印象派の絵を買い支えました。
※本記事は、美術館や事典などで公開されている情報をもとに、印象派が評価されていった過程を筆者の視点で整理したものです。年代や数字には資料によって差があるものもあります。掲載している絵画は、いずれも著作権の保護期間が終わったパブリックドメインの作品です。