「AI人材を100名育成しました」というニュースを見たとき、その100人が何を学んだかまで確かめたことはあるでしょうか。今回は、ライオン株式会社の公開情報を時系列に並べ直しながら、AI人材育成の中身を読み解いてみます。
Contents
そもそも、AI活用はいつから始まっていたのか
まずは時系列を並べ直すところから始めます。ライオンが社内向け生成AI「LION AI Chat」を導入したのは2023年です。多くの企業に先駆けて、内製で開発したものでした。ただ、話はそこから始まったわけではありませんでした。
大きな転機は2018年から段階的に進め、2022年5月に稼働した基幹システムの刷新でした。それまで部門ごとに別々のシステムを使っていたところ、部門の枠を越えてデータをつなげられる環境が整います。もともと研究開発部門では組成開発や香味開発でデータ活用が進んでいて、その取り組みを全社に広げようという発想に切り替わったのが、このタイミングだったと同社は説明しています。
人の側の動きはもう少し早くからありました。2007年入社で油脂の基礎研究をしていた研究員が2017年から全社のデジタルプロジェクトに参画し、2019年には研究開発本部の戦略統括部データサイエンス室でAIを中心としたデジタル技術の社内推進を担当。2021年にDX推進部を立ち上げています。
このDX推進部が当時定義した人材が2種類ありました。「データサイエンティスト」と「デジタルナビゲーター」です。後者は人に対して翻訳する役割だと説明されていました(その後、全社のDX人材像は後述する19のロールへと、より細かく定義されていきます)。以前の記事(AI実装人材(Forward-Deployed Engineer)とは何者か)でも触れたように、AIを現場に入れるときは、技術力だけでなく「社内の翻訳者」の存在が効いてきます。その発想が2021年の時点ですでにあったことになります。
研究開発の成果も、生成AIの前から出ています。ハミガキの香料開発には「熟達者思考AI」が先行して開発されていました。ベテラン研究員の知見と、過去の香料処方や原料約500種の特徴データを学習させたAIです。2022年4月には香料の調合を全自動で行うロボットを導入し、この熟達者思考AIと組み合わせることで、香料開発にかかる時間を最大約20%削減できる見込みだとしています。

※画像はクリックで拡大できます
つまり、全社に生成AIが入る前から、研究開発の現場ではデータやAIを研究員自身の道具にする取り組みが動いていました。経営が号令をかけたのが先か、現場が動いていたのが先か。公開情報からはどちらが原因でどちらが結果かまでは分かりませんが、少なくとも両方が重なって進んだことは確かです。
100名は、いったい何を学んだのか
ここが今回いちばん確かめたかったところです。
2025年6月、ライオンは「LION AI Chat」を1年半ぶりに大幅アップデートし、あわせて2025年末までに非エンジニアを含む100名のAIエージェント開発者を育成する集中教育プログラムを開始すると発表しました。使うのはDify(ディフィ/ノーコードで生成AIアプリを作れる開発プラットフォーム)です。
前提を一つだけ補足します。ライオンには「2026年度までに全従業員の約30%にあたる1,000名をデジタル活用人材に育成する」という全社目標もあります。今回の100名は、その全社目標とは別に設けられた、自部門の業務にAIエージェントを実装できる人を集中的に育てるプログラムです。人数の大小ではなく、求めるスキルの種類が違います。
そのプログラムの学習ステップが、こう公表されています。
AIエージェント開発者育成プログラムの学習ステップ
1. 業務棚卸し ― 生成AIに適するタスクを選定
2. 業務フロー再設計 ― 任せられる工程の明確化
3. 効果試算 ― ビフォー/アフターでROIを見積もり
4. Dify開発 ― ノーコードでエージェント実装
5. 検証・改善 ― 実業務でテストしチューニング
成果物として求められるのは、部門や個人の業務に特化したAIエージェント1体と、効果測定レポート(工数削減・品質向上など)。最終評価は成果発表会でのデモ実演とROI報告で、講師と参加者が相互にフィードバックする形です。プログラムの目的そのものも「AIエージェントを業務に実装できる総合スキル(課題発見・業務設計・エージェント開発・効果測定)の習得」と書かれています。
同じ思想は、研究所の育成講座にも見えます。こちらは基礎編3か月と応用編3か月の半年で1クール。前半は自社の事例をケーススタディとして学び、後半の3か月は受講者が自分の業務の中から課題を見つけて、それをデータサイエンスで解いていきます。教材はすべて内製です。外部のデータサイエンス講座を受けたものの、研究開発に特化した題材ではなく実務で使えるようにならなかった。運営メンバーの一人が語るその経験から、この形になったそうです。
講座が重視する「課題解決力」の定義も明快です。どんな技術があるかを知って何に使えるかを考えるのではなく、まず何を解決すればよりよい研究開発の習慣になるかを考えてから、そのためにどんな技術があるかを考えていく。この順番を課題解決力と呼んでいます。
ここが面白いところではないでしょうか。どちらの育成も、求めているのはツールの使い方ではありません。自分の業務から課題を見つけ、フローを再設計し、実装して、効果を測るところまでです。
だとすると、100名という数字の読み方が変わります。この目標は「AIを使える人を100人つくる」というより、業務変革のサイクルを一度回す育成設計だと読めます。単なるAIリテラシー研修とは、求めているものが違います。
以前の記事(AI利用率をKPIにすると何が壊れるか)では、AIの利用率を目標に置くと、評価されたいがために使われないエージェントが量産される問題を扱いました。その問いに対する一つの答えのような設計が、ここにあります。AI人材育成で見るべきKPIは、何人が受講したかではなく、何人が業務変革を一周したか。そう考えると、育成の設計そのものが評価対象になります。
「習慣を変える」は、研究員自身にも向いていた
では、なぜ「AIを使える人」で終わらせなかったのでしょうか。
それは、この会社がDXを技術の導入ではなく社員の働き方や習慣を根本から変える挑戦だと位置づけていたからです。習慣が変わらなければ、ツールを配っても定着しない。だから育成の中身が、使い方の習得ではなく「自分の業務から課題を見つけて解く力」になった。そう読むと、5つの学習ステップの並びに納得がいきます。
この位置づけは言葉の端々に表れています。ライオンのパーパスは「より良い習慣づくりで、人々の毎日に貢献する(ReDesign)」。そしてデジタル戦略のキャッチフレーズは「LDX ― 習慣を科学する」です。研究開発部門のDXを紹介する記事のタイトルにいたっては、そのまま「研究員の習慣をアップデートする」となっています。
顧客の習慣を変えることを掲げる会社が、自社の研究員の習慣から変えにいった。狙ってやっているのか自然とそうなったのかは分かりませんが、言葉と施策がきれいにつながっています。
この育成は、事業戦略とどうつながるのか
こうした実務につながる育成になったのは、思想だけではなく、戦略と人材を接続する作業を実際にやっているからだと思います。
2024年4月、他社でDXを主導してきた人材が執行役員 全社デジタル戦略担当として入社し、全社戦略とデジタル戦略が強く結び付きました。2024年から2025年にかけて、デジタル戦略の解像度が一気に高まったと同社は説明しています。
その戦略は「未来予測型経営」「DX民主化」「デジタル活用による重点領域強化」の3軸に整理され、さらに「新規事業の拡大」「モノづくりDX促進」「需要予測の高度化・精緻化」など13の重点テーマに細分化されました。ただ、ここで壁にぶつかります。各領域でDXのゴールは見えてきたものの、どんな人材がどれくらい必要かを言語化できないという課題です。
そこで参照したのが、経済産業省とIPAが定めたデジタルスキル標準(DX人材の役割とスキルの共通の物差し)でした。これをベースに、デジタル化対象の社員約3,000名にスキルアセスメントを実施。同社はビジネスアーキテクト(デジタルをどう使うか構想し推進する役割)をDXの最初の一歩と位置づけ、全社員が目指すベースラインに置いています。ところがアセスメントの結果、そのビジネスアーキテクトでも期待するレベルに達している人は非常に少ないことが分かりました。
そのうえで、重点テーマごとに「このアクションはどのロールが担うのか」を整理し、自社独自のDX人材像を19種類のロールに定義しています。デジタル戦略のあるべき姿と、人材のあるべき姿を結び付けたわけです。
この整理ができたことで、社内の議論が変わったと担当者は語っています。「このロールの人材が何人揃えば成果が出るのか」「足りなければテーマの進捗に影響が出るのか」。教育も採用も、具体的な人数と時期で設計できる段階に近づいてきた、と。
方針転換もありました。以前は基礎的なデジタル教育を広く展開していたものの、学んだ内容が現場の業務に十分結びついていなかった。そこで今は、重点テーマに深く関わる人材を最優先で育成しつつ、リテラシー講座で裾野も広げる二段構えにしています。
どんな研修を受けさせるかは、事業戦略から逆算されるべきです。13のテーマから19のロールを定義し、約3,000名のスキルを測るところまで具体化して公開している点は、注目に値します。
AI成果マップに置くと、空欄が見えてくる
ここで、以前の記事(AI経営は何を測るべきか)で整理した枠組みを使ってみます。AI成果マップと呼んでいるもので、中身は単純です。使われたか・仕事が変わったか・価値が出たかの3段階を、業務・財務・リスク・人の4つの側面で見るだけの表です。
ライオンの公開情報を当てはめると、こうなります。

※画像はクリックで拡大できます
埋めてみると、業務の列はかなり具体的なところまで埋まります。ベイズ最適化(過去のデータを起点に最適な条件を探す機械学習の手法)を使ってハミガキの組成開発の実験計画を立て、想定の約半分の期間で開発できた事例。香料開発の時間を最大約20%削減する見込み。社内の研究知見を検索できるAIの導入。数字と固有名詞で語られています。
人の列も、途中までは埋まります。100名超のAIエージェント開発者。約3,000名へのスキルアセスメント。19のロール定義。2026年度までに1,000名という目標。各研究所に自主的にデータサイエンスを扱うチームのようなものが生まれている、という記述もあります。
埋まらないのは、その先です。育成を終えた人の役割がどう変わったのか。評価や処遇に反映されているのか。AIで浮いた時間が実際に何へ向かったのか。ここは公開情報からは確認できません。
整理するとこうなります。業務では価値が出たところまで語られているのに、人では育成した人数までで止まっている。
これはライオンに限った話ではありません。むしろ、育成から実装へ進んだ企業ほど、この部分が外から見えにくくなります。作ったエージェントの数は公表されても、それを作った人がその後どうなったかまでを追う指標は、少なくとも公開情報からは確認できません。
この育成、誰の時間でやっているんだろう
ここからは、公開情報では見えない部分の話になります。
研究所の育成講座について、運営側はこう語っています。通常の業務を行いながらの取り組みなので、受講者も伴走する側もかなり大変。ただ、その大変さと比例して満足度も非常に高いというアンケート結果が出ている、と。AIエージェント開発者の育成も、業務棚卸しからROI試算、実装、検証、成果発表までを求める内容です。
読んでいて引っかかったのは、この負荷を誰が負っているのか、という点でした。プログラムの中身が濃いほど、受講者の時間は削られます。それが業務時間の中に設計されているのか、本人の熱意に依存しているのかで、続くかどうかが変わります。
公開情報からは分かりません。ただ、ここから立てられる問いはいくつかあります。
- 育成の時間は、業務として確保されているか
- 育成を終えたあと、役割や評価は変わっているか
- AIで浮いた時間は、何に移ったか
これはライオンだけの問いではありません。AI人材育成を進めるすべての企業が、次に確認することになる論点です。
自社に置き換えると、何を確かめるか
ここまでを自社に当てはめるなら、確かめる先は3つあります。
一つめは、育成の成果物が何かです。受講証なのか、業務を変えた実績なのか。ライオンの場合はAIエージェント1体と効果測定レポートでした。成果物の定義が、その育成が何を作ろうとしているかを表しています。
二つめは、育成の中身が事業戦略から逆算されているかです。重点テーマ、必要なロール、そのための教育。この順番でつながっているかどうか。
三つめは、育成の負荷が業務時間の中に設計されているかです。人的資本の観点では、育成人数より育成の重さのほうが持続性を決めます。
そのうえで、AI成果マップの「人」の列を自社の資料で埋めてみてください。埋まらない欄が、次に経営が問うべき論点です。
調べてみたら、最初の見立てが変わった
正直なところ、私は最初、ライオンを「経営トップが生成AIの号令を出して、現場がそれに応えた会社」だと思って読み始めました。ところが公開情報を時系列に並べてみると、少し違う景色が見えてきます。全社に生成AIが入る何年も前から、研究開発の現場ではデータやAIを研究員自身の道具にする取り組みが続いていたのです。
経営が号令をかけたから動いた、というより、すでに動いていたものに戦略の言葉がついた。そう読むほうが実態に近いのかもしれません。
もう一つ考えたのは、AI成果マップの「人」の列が空いている理由です。仕組みがないからではなく、AI活用が人に何をもたらしたかを測る型が、まだできあがっていないからではないでしょうか。
ただ、測れないわけではないと思います。工数の配賦比率、目標管理シートの中身、特許出願数や新規テーマ数といったアウトプット、総労働時間、社内公募や異動の件数。どれも、人事と経営がすでに持っているデータです。新しく何かを測り始める必要はありません。
人の変化を数字で出している企業もあります。ソフトバンクはAI関連資格の保有者が全社員の約13%に達し、1,000名以上が新たな領域に挑戦したと公表しています。ただ、私が調べた範囲では「AIで浮いた時間が何に移ったか」まで踏み込んだ例は見つけられませんでした。2026年3月31日以後に終了する事業年度の有価証券報告書からは、企業戦略と関連付けた人材戦略の開示が求められます。戦略と人材のつながりを説明する圧力は、確実に強まっています。
出し方には気をつけたいところです。削減できた時間だけを出すと、解雇の議論として受け取られる可能性があります。減った時間が何に移ったかとセットで、しかも個人単位ではなく組織単位の集計で。そこまで設計できて、はじめて外に出せる数字になるのではないでしょうか。
まとめ ― 今日できること
- 自社のAI人材育成の「成果物」を確認する(受講証か、業務を変えた実績か)
- 育成の中身が、事業戦略の重点テーマから逆算されているかを確認する
- AI成果マップの「人」の列を埋め、空欄を次の会議の議題にする
筆者コメント
AI人材という言葉は、いまのところ「AIを使える人」という意味で使われることが多いように感じます。ただ、ライオンの育成プログラムを読むかぎり、求められているのはその先でした。自分の業務を見直し、AIを実装し、効果を測るところまで一度回す。少なくとも業務側で育てるAI人材に求めたいのは、AIを使えることだけではなく、AIを使って仕事を変えられることだと思います。
そして、その人たちの時間と評価をどう設計するか。ここがいちばん測りにくく、いちばん効いてくる部分ではないでしょうか。
【セルフチェック】AI人材育成の6項目
この記事の考え方を、自社のAI人材育成に当てはめてみるためのチェックリストです。正解を出すためのものではなく、立ち止まって考えるためのもの。気になった項目だけ拾ってもかまいません。各項目に、考えるときの手がかりを一言ずつ添えました。
-
育成の成果物が定義されている受講証で終わっていないか
-
育成の題材が自社の実務から出ている汎用教材だけになっていないか
-
効果測定まで育成に含まれている作って終わりになっていないか
-
育成の中身が事業戦略から逆算されている重点テーマと必要なロールがつながっているか
-
育成の時間が業務時間に入っている本人の熱意に頼っていないか
-
浮いた時間の行き先を把握している既存のデータで確かめられないか
用語メモ
本記事に登場する専門用語をまとめました。▶ をクリックすると説明が表示されます。
▶ AI成果マップ(3段×4視点)
AIの導入成果を「使われたか・仕事が変わったか・価値が出たか」の3段階と、「業務・財務・リスク・人」の4つの側面で整理する枠組みです。以前の記事「AI経営は何を測るべきか」で整理しました。
▶ AIエージェント
文章を生成するだけでなく、目的に応じて手順を組み立て、外部のシステムと連携しながらタスクを実行するAIの仕組みです。
▶ Dify(ディフィ)
生成AIのアプリやワークフローを、ノーコード/ローコードで構築できる開発プラットフォームです。読み方は「ディファイ」と紹介されることもありますが、開発元の日本法人は「ディフィ」と表記しています。ライオンのAIエージェント開発者育成プログラムで使われています。
▶ デジタルスキル標準(DSS)
経済産業省とIPA(情報処理推進機構)が定めた、DXを進める人材の役割とスキルを整理した共通の物差しです。企業が自社の人材像を定義するときの参照元として使われます。
▶ ベイズ最適化
すでに得られているデータを起点に、次に試すべき条件を効率よく探す機械学習の手法です。実験の回数を減らせるため、材料や製品の組成開発で使われます。
▶ 熟達者思考AI
ライオンが香料開発のために開発したAIの呼称です。ベテラン研究員の知見、過去の香料処方、香料原料約500種の特徴データを学習させ、目指す香りのイメージに合った処方案を提示します。
出典・参考情報
※本記事は2026年9月時点で公開されている各社の発表資料・報道をもとに構成しています。特定企業の評価や、個別の制度設計に関する助言を目的とするものではありません。各社の取り組みの最新状況は公式発表をご確認ください。