エンゲージメントスコアの開示が求められる時代になりました。2026年3月期の有価証券報告書(以下、有報)から、経営戦略と連動した人的資本開示が上場企業に義務化され、多くの企業がエンゲージメントスコアの測定・開示に動いています。
しかし、その動きの中で気になる現象が起きています。スコアを「測る」ことが、いつの間にか「上げにいく」ことにすり替わっていないでしょうか。
本記事では、2026年3月に公表された人的資本可視化指針(改訂版)を手がかりに、エンゲージメントスコアとの正しい向き合い方を考えます。
Contents
エンゲージメントスコア「上げにいく病」が現場で起きている
開示義務化がもたらした"手段の目的化"
人的資本開示の流れの中で、エンゲージメントスコアは代表的な開示項目のひとつになりました。内閣官房が2022年に公表した「人的資本可視化指針」でも、エンゲージメントは開示が期待される項目に含まれています。
これ自体は前向きな動きです。問題は、開示項目になった瞬間に「数字を上げること」そのものが目的化してしまう現象です。
経済学には「グッドハートの法則」と呼ばれる概念があります。ある指標が政策目標になると、その指標は良い指標ではなくなる、という考え方です。エンゲージメントスコアにも、まさにこの構造が当てはまります。
「スコアが外部に開示される → 低い数字は出せないというプレッシャーが生まれる → サーベイ項目に最適化した施策を打つ」という流れが生まれると、本質的な組織改善ではなく"項目対策"が走り始めます。
グッドハートの法則への対処法はシンプルです。指標はあくまで「傾向」や「参考値」として扱い、一つの数字だけに依存しないこと。そして、フォーカスすべき指標自体を定期的に見直すことです。人材版伊藤レポート2.0でも「動的な人材ポートフォリオ」という考え方が示されています。経営戦略に向かって進む中で、人材構成の変化、市場環境の変化、必要なスキルの変化など、さまざまな変動が起きます。それに応じて、必要な人材の質と量を動的に見直していく。見るべき指標もまた、その見直しに連動して変わっていくものです。開示のたびに「今の状況にとって本当に重要な指標はどれか」を問い直す——それが「経営戦略との連動」の本質です。
最悪のシナリオは「全部裏目に出る」こと
ここで重要なのは、スコアを上げにいく施策を打っても、スコアが上がる保証はないということです。エンゲージメントサーベイは従業員の実感を測るものです。施策の意図と従業員の受け止め方にギャップがあれば、どれだけ施策を打ってもスコアには反映されません。
最悪のシナリオはこうです。
「上げにいく」がもたらす最悪の悪循環
- 原因分析をせずに、総合スコアを上げるための施策を打つ
- しかしスコアは上がらない
- 組織の本質も変わっていない
- サーベイ疲れと「やらされ感」だけが蓄積する
- 「施策をやった → 何も変わらなかった → でもまたサーベイが来る」の悪循環に陥る
スコアも上がらない。組織も変わらない。従業員のサーベイに対する信頼だけが削られていく。これが、もっとも避けたい結末です。
念のため補足しておくと、スコアを上げたいという意志そのものは健全です。問題は、総合スコアだけを見て「とにかく上げろ」となること。スコアを構成する個別の要素を分解し、原因を特定し、適切な施策を打つ。その結果としてスコアが上がるのであれば、それはまっとうなプロセスです。
エンゲージメントスコアは「体温計」である
エンゲージメントスコアの性質を理解するために、健康診断に例えてみます。
健康診断には「総合判定」があります。A判定やC判定といったものです。しかし、「総合判定をA判定にしたい」と思ったとき、総合判定そのものを直接いじりにいく人はいません。血液検査の結果を見て、血糖値が高ければ食事を見直す。肺機能が低ければ運動習慣を変える。個別の項目を分解し、原因を特定し、そこに手を打つのが当たり前のアプローチです。
エンゲージメントスコアも同じ構造です。スコアはサーベイの複数の設問から算出される総合指標です。その中には、仕事のやりがい、上司との関係、キャリア機会の実感、組織への信頼など、さまざまな要素が含まれています。
「スコアを上げにいく」というのは、この総合指標を分解せずに、最終結果だけを見て動こうとする行為です。健康診断でいえば、総合判定だけを見て「A判定にしてくれ」と言っているようなもの。原因分析をしないまま結果だけを変えようとしているのです。
エンゲージメントスコアは、いわば「体温計」です。体温が高いとき、やるべきことは体温計の数字を下げることではなく、熱の原因を探ること。エンゲージメントスコアが低いとき、やるべきことはスコアを上げることではなく、スコアを構成する個別の要素を分解し、どこに課題があるのかを特定すること。その順序を間違えないことが大事です。
改訂版・人的資本可視化指針が求める「フォーカス」の思想
「網羅性」から「経営戦略との連動性」へ
2026年3月23日、内閣官房・金融庁・経済産業省は「人的資本可視化指針(改訂版)」を公表しました。2022年の初版から約3年半ぶりの改訂です。
改訂版の最大のポイントは、開示の重心が「指標の網羅性」から「経営戦略との連動性」へ転換されたことにあります。
2022年版では、どのような項目を開示すべきかを幅広く示す方向性でした。改訂版では、「あるべき組織・人材の姿」を明確にし、それに対して必要な人的資本投資を整理する——つまり、経営戦略と人材戦略の連動を語ることが中核に据えられています。
投資家が見たいのは、「エンゲージメントスコア○点」「女性管理職比率○%」という数値の羅列ではありません。その数値が経営戦略とどうつながっているのか、なぜその指標にフォーカスしているのか、というナラティブ(物語)です。
「捨て問を作る」覚悟
この改訂版の思想をもう一歩踏み込んで言えば、「捨て問を作る」覚悟が問われているということです。
あらゆる指標を等しく並べて「全部やっています」と言う開示は、一見すると網羅的ですが、実は何も語っていないのと同じです。改訂版の思想は、それとは逆の方向を向いています。自社の経営戦略にとって本当に重要な2〜3の指標に絞り、そのストーリーを語れるか。フォーカスする勇気があるか。
総花的に全部やりますという姿勢は、実は投資家やステークホルダーの期待とはずれています。
開示義務のない組織こそ、この問いが活きる
ここまでの話は、有報による開示義務がある上場企業を念頭に進めてきました。しかし、「スコアを上げにいかない」「フォーカスする」という考え方は、開示義務のない組織にこそ重要です。
非上場会社、相互会社、医療法人、学校法人、NPO——こうした組織には有報による開示義務はありません。しかし、法的義務がない分、「何のためにエンゲージメントを測るのか」「何のために開示するのか」を自ら設計できる自由があります。
義務だから開示する、ではなく、経営の意思として開示する。義務がないからこそ、本当に自社にとって意味のある指標にフォーカスできる。その方が、結果的に契約者、社員、採用候補者、地域社会といったステークホルダーからの信頼は高まるのではないでしょうか。
まとめ ― まずは今日できること
大がかりな取り組みの前に、まず「問いを持つ」ことが第一歩です。
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「この施策は何のためか?」と自問してみる(所要5分)→ 次のエンゲージメントサーベイの前に、いま進行中の施策について「これはスコアを上げるためか?それとも組織を良くするためか?」と問いかけてみてください。答えが前者なら、立ち止まるサインかもしれません。
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直近のサーベイ結果を「分解」してみる(所要10分)→ 総合スコアではなく、個別の設問や領域ごとの結果を見てみてください。「うちが特に弱いのはどこか」が見えるだけで、次の一手が変わります。
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自社のエンゲージメント施策を1つ選び、「これは従業員の実感に届くか?」を考えてみる(所要15分)→ いま取り組んでいるエンゲージメント関連の施策を1つ選んで、「この施策は、従業員から見てどう受け止められるか?やらされ感につながっていないか?」を想像してみてください。施策の意図と受け手の実感のギャップに気づくことが、改善の第一歩です。
筆者の所感
この記事を書くきっかけは、エンゲージメント担当として働いている友人との対話でした。友人は「スコアを上げにいく動きには違和感がある。結果として上がるものであって、そこを目指すのは違う気がする」と話してくれました。
この直感は、本記事で整理した「エンゲージメントスコアは総合指標であり、分解・原因分析なしに直接いじりにいくべきではない」という考え方と合致しています。
実際、人的資本開示の現場では、担当者が「今の段階でこの数字を出していいのか」と躊躇する場面があります。この躊躇自体が、数字をよく見せたいというプレッシャーの表れであり、「上げにいく」の入口になりうるものです。だからこそ、スコアの高低に一喜一憂するのではなく、「この数字の背景には何があるのか」「どの要素を分解して見るべきか」、そして「そもそもこの指標は、自社の経営戦略との連動から設定されたものか」という問いに立ち戻ることが大事なのだと思います。
このサイトでは、今後も人的資本経営や労務リスクの論点を一次情報をもとに整理していきます。一緒に学んでいきましょう。
用語メモ
本記事に登場する専門用語をまとめました。▶ をクリックすると説明が表示されます。
エンゲージメントスコア
グッドハートの法則
人的資本可視化指針
エンゲージメントサーベイ
有価証券報告書(有報)
出典・参考情報
経済産業省「人的資本経営の実現に向けた検討会 報告書 ~人材版伊藤レポート2.0~」(2022年5月)※経産省サイトリニューアルに伴いURLが変更されている場合があります。経産省の人的資本経営ポータルページからご確認ください。
※本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、個別の法的助言ではありません。具体的な判断が必要な場合は、社会保険労務士・弁護士等の専門家にご相談ください。