2026年3月23日、内閣官房・金融庁・経済産業省が「人的資本可視化指針(改訂版)」を正式に公表しました。
2022年に初版が出てから約3年半。この間、2023年には有価証券報告書(以下、有報)での人的資本開示が義務化され、さらに2026年3月期からは経営戦略と関連付けた人材戦略の記載が求められるようになりました(企業内容等の開示に関する内閣府令の改正、2026年2月20日公布・施行)。
今まさに「今年の有報にどう書くか」を詰めている担当者も多いはずです。「前年までの書き方のままでいいのか」「改訂版に沿って書き直すべきか」。この記事では、改訂版の骨子を読み解きながら、「結局何が求められているのか」の本質を整理します。
なお、この指針は有報を提出する上場企業だけに向けたものではありません。改訂版には「企業規模に関わらず」活用できるガイダンスであることが明記されています。非上場・中小企業の方にも、ぜひ目を通していただきたい内容です。
Contents
可視化指針の改訂で何が問われているのか
「量」だけでなく「質」が問われている ― 日本の人的資本投資の現在地
改訂版の冒頭に、日本の人的資本投資の現状についてはっきりとした記述があります。日本のOFF-JT(職場外研修)関連の投資額は、対GDP比で米国・ドイツ・フランス・英国と比べて低水準にとどまっている、と。
つまり「人への投資が足りていない」というのは、感覚的な話ではなく数字で裏付けられた事実です。生成AIの進展によるスキル需要の変動、労働供給の制約――こうした構造変化の中で、人的資本投資の「量」だけでなく「質」が問われているのが今の局面です。
「人事異動で育てる」から「自律的キャリア形成」へ
これまでの日本企業は、人事異動を通じて人材を育てるのが一般的でした。「次はこの部署で経験を積んでもらおう」という人事主導型の能力開発です。
しかし、個人が抱える課題やキャリアの方向性は本人にしかわかりません。改訂版でも、ジョブ型人事指針(2024年に内閣官房が公表した、職務を基軸とした人材マネジメントの考え方を示すガイドライン)で述べられている自律的キャリア形成の重要性が強調されています。ただしこれは、ジョブ型を導入している企業だけの話ではありません。どんな人事制度であっても、「本人が進みたい方向に向かうことが最も望ましい」という考え方は共通です。
女性活躍・ダイバーシティの遅れ
改訂版では、日本の女性活躍やダイバーシティの遅れについても触れられています。管理職に占める女性の割合は国際的に見て非常に低い水準です。
「世界と比べても、ここは日本なのだから」。そういう声は現場で多く聞かれます。しかし、経営を成り立たせる「人」をもう少し真摯に見つめることが重要です。一人ひとりの能力発揮が持続的な自己研鑽につながり、それが企業価値の向上につながる。その好循環を作れるかどうかが問われているのです。
投資家が見ているのは「人材戦略のストーリー」
事業戦略は明確。問題は人材戦略が紐づいていないこと
事業戦略を流暢に話す経営者は多いです。しかし投資家からは、「その戦略を実現するための人材戦略が見えない」という声が繰り返し上がっています。
改訂版が参照している調査(投資家86社対象)では、中長期の投資・財務戦略において人的資本投資を特に重視すべきと考える投資家が6割以上に上りました。投資家が見ているポイントは、おおむね次の3つです。
投資家が注目する3つのポイント
- 人材戦略が企業価値の向上につながるストーリー
- 人材戦略が影響を与える経営戦略・事業戦略
- 人材戦略が影響を与える財務指標
投資家は、KPIの数字そのものではなく、「この会社は人を通じてどう成長していくのか」というストーリー全体を聞きたいのです。
「経営戦略」を噛み砕くとこうなる
「経営戦略と人材戦略を連動させる」と言われると難しく聞こえますが、やっていることはシンプルです。
われわれの会社はどういう方向を目指していて、どんな世界を実現したくて、そのためにこんなものやサービスがある。それを作る・知ってもらう・売るための仕組みがある。その中で、人が担うべきはここで、今この経営を持続可能にするための人的な課題はここ。だからこそ、ロードマップとして人材戦略を立てて実行していく。
この「翻訳」ができるかどうかが、人材戦略のストーリーを語れるかの分かれ目です。
「比較可能な指標」と「企業独自の指標」の両立
開示する指標には大きく2種類あります。ひとつは、ISO 30414(人的資本レポーティングに関する国際規格。従業員の構成、採用、離職、スキル開発などの指標を体系化したもの)などの国際標準を参照した比較可能性のある指標。もうひとつは、自社の経営課題への取り組み進捗や、独自のカルチャーに根ざした企業独自の指標です。
ISOなどの枠組みは「観点の参考」として非常に有用です。ただし、それだけで自社の人材戦略を表現することはできません。改訂版でも「独自性のある開示を検討することが重要」と繰り返し述べられています。 国際標準を参考にしつつ、「うちの会社にしかない観点はないか?」を常に自問し続けることが大事です。
全体像を把握する ― 可視化は「指標づくり」から始まらない
改訂版では、人的資本の可視化を「経営戦略と連動した人材戦略の策定→指標と目標の設定→可視化とモニタリング→開示」という一連の流れで捉えています。
「指標と目標」に飛びつかない
「可視化」と聞くと、すぐに「どんなKPIを設定するか」に目が行きがちです。しかし改訂版が最初に強調しているのは、指標の設定ではなく、経営戦略をしっかり理解し、マーケットの人材状況を理解し、そこに投下すべき資本を見極めることです。
つまり、いきなりKPIの話に入るのではなく、まず「わが社の経営戦略を実現するために、どんな人材がどれだけ必要なのか」を考える。そのためには、どういった課題があって、どういう施策を打つべきか。戦略・施策がうまくいっていることを測る指標は何か、といった流れを踏まえて検討する必要があります。
「依存と影響」のフレームで考える
改訂版で示されている考え方は、「依存」と「影響」というフレームです。
企業の経営戦略の実現は、あるべき組織・人材を確保できるかに依存しています。一方、企業は投資を通じて人的資本に影響を与えることができます。この相互関係を整理すると、人的資本に関するリスクと機会が見えてきます。
たとえば、AI分野の高度専門人材に依存する企業であれば、そうした人材を確保できないことが最大のリスクです。逆に、報酬設計や研修投資を通じてそうした人材を惹きつけ・育てることが、人的資本への「影響」になります。
つまりこれは、事業戦略を立てるときと同じような頭の使い方です。市場を分析し、競合を見て、自社のポジションを定め、投資する。その対象が「人」に置き換わっただけなのです。
人事部門に求められる「視座の転換」
「研修をやる人」「モチベーションを高める人」からの脱却
人事は「研修をやる人」「人のモチベーションを高める人」という認識が、社内では根強いのではないでしょうか。
もちろん、研修もモチベーション向上も大事な仕事です。しかし、それらの活動にも「戦略として目指す方向」があるはずです。その方向性が経営戦略と紐づいているか。社内だけを見るのではなく、外――つまりマーケット・競合・投資家の目線で人材を捉える必要があります。
人事の責任者が「経営戦略と紐づけて説明しきる」能力
経営者が人材戦略を説明するのはもちろん大事です。しかし改訂版が示唆しているのは、人事の責任者自身が経営戦略に紐づく形で人材戦略を説明しきる力です。
「なぜこの採用をしているのか」「なぜこの研修に投資しているのか」を、事業戦略の言葉で語れるか。それができたとき、人事は「コストセンター」ではなく「戦略パートナー」になります。
なお、人事部が採用・労務・制度運用に閉じた組織のままでは、この期待に応えるのは難しいかもしれません。人事部の組織体制や他部門との横連携のあり方については、今後深掘りしていきたいテーマの一つです。
指標の「選球眼」を鍛える ― 全部やらなくていい
理想の指標を並べることは簡単ですが、現実問題として、リソースの制約があります。データの収集・集計にはコストがかかりますし、継続的に取れる指標は限られることが多いです。
だからこそ「本当に重要な指標はどこなのか」「そぎ落とした先に何が残るのか」を常に検討することが大事です。AI時代にはデータ収集・分析が瞬時にできるようになるかもしれませんが、現状では取捨選択の力がまだまだ問われていくことと思います。「全部やろう」ではなく、「ここだけは見よう」を決める判断力・決断力こそが、実務では価値を持ちます。
非上場・中小企業にとっても無関係ではない
有価証券報告書での開示義務は上場企業が対象です。しかし、今回の改訂版には「企業規模に関わらず」活用できるガイダンスであることが明記されています。つまり、この指針は上場企業だけのものではありません。
むしろ中小企業の方が「人」への依存度が高く、人的資本の課題が経営に直結しやすいとも言えます。特定の技術者が辞めたら事業が止まる。採用がうまくいかなくて成長できない。そうした悩みを抱えている企業こそ、「うちの会社はどんな人材戦略で人を惹きつけるのか」を言語化することに価値があります。
加えて、2026年4月からは改正女性活躍推進法により、従業員101人以上の企業(上場/非上場を問わず)に対して「男女間賃金差異」「女性管理職比率」の公表が義務化されます。人的資本に関する情報開示の波は、有報の枠を超えて、確実に中小企業にも届いています。
開示義務があるかどうかは別としても、「経営戦略と人材戦略を紐づける」という考え方は、企業規模を問わずに使えるものです。採用難の今だからこそ、「この考え方を自社に当てはめたらどうなるか」を一度考えてみることをお勧めします。
まとめ ― まずは今日できること
大がかりな取り組みの前に、まず「問いを持つ」ことが第一歩です。今日からできることを3つ挙げてみました。
有報を提出する上場企業の方
- 自社の有報を開いて「人的資本」の記載箇所を確認する(所要10分)→ 有報の「サステナビリティに関する考え方及び取組」と「従業員の状況」のセクションに人的資本の記載があります。自社が昨年どう書いたかを見てみてください。
- 改訂版をダウンロードして目を通す(所要15〜30分)→ まずは、改定版人的資本可視化指針をダウンロードしましょう。全体をパラパラとめくり、なんとなく概要把握するところから始めてみましょう。
すべての企業の方(規模を問わず)
- 「うちの人材戦略って何だっけ?」と、隣の席の人と話してみる(所要5分)→ 大げさな取り組みではなく、まず問いを持つこと自体が第一歩です。答えがすぐに出なくても大丈夫。その問いを持てたこと自体に価値があります。
筆者の所感
今回の改訂版を読んで感じたのは、これは国際基準の技術的な話というより、「何が求められているのか」の本質を改めて突きつけたものだということです。
開示のためのKPIではなく、経営を動かすためのKPIを設計すること。「人」を真摯に見つめることが、結局は企業価値の向上につながる。そしてそのためには、世の中の動きを知っていくことが大事です。
このサイトでは、今後も人的資本経営や労務リスクの論点を一次情報をもとに整理していきます。一緒に学んでいきましょう。
用語メモ
本記事に登場する専門用語をまとめました。▶ をクリックすると説明が表示されます。
人的資本可視化指針
ISSB
IFRS S1
SSBJ
ISO 30414
ジョブ型人事指針
4つの要素
有価証券報告書(有報)
出典・参考情報
※本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、個別の法的助言ではありません。具体的な判断が必要な場合は、社会保険労務士・弁護士等の専門家にご相談ください。
次回は、改訂版の別紙で示されている「投資家の期待に応えるための人的資本開示の考え方」について、さらに踏み込んで整理していきます。経営戦略からビジネスモデルを経て人材戦略へ、ストーリーの作り方を具体的に見ていきましょう。